その怒り、無意味。

 

 

宿題を毎回のようにやらない少年がいた。

 

先生はある日の面談で、少年の母にその事実を伝えた。

 

それを聞いた母親は平静を装っていたものの、顔を明らかに紅潮させていた。

 

数日後、少年は珍しく宿題をやってきたのだった。

 

母親から、貴重な”アドバイス”を賜ったのだろう。

 

そのおかげで、宿題はまさに”完璧な出来”だった—模範解答と一字一句同じであった。

 

 

お母さんに怒られたから、答えをそのまんま写してきましたってお話。少し内容を変えてるけど、実話。残念ながらこのような話は毎日のように耳にする。

 

このお話から、実に多くのことを学べるのだけども、今日は怒ることの無意味さについて語ろうかと。

 

 

ちょうど今日、岡本は寝坊をしてしまい、とある方達とのミーティングに間に合わなかった。

 

とある方達はみなさん寛大で、何事に対しても何の文句も言わない人たちだ。

 

だから、ミーティングをすっぽかしても別に何も言われないのは分かっていた。分かっているからこそ、余計なことを考えずに、自分の行為を反省して次の機会にいかそうとするわけだ。

 

ところが、もし、とある方達が、めちゃくちゃキレまくる性格だったら…、岡本はビビリだから、おそらく必死で言い訳を考える。

 

「途中でケガしたネコに出遭ってしまい…え?連絡はできるだろって?そ、そうなんですけど、いやもう必死でネコちゃんを抱き抱えて走ってたんで…え?その割になんでそんな服が汚れていないだって?そ、それが飼い主がお礼にって服を下さりましてそれを着てきました…え?そんな襟のないシャツを着てるのはお前だけだろって?そ、そうですよね…。」

 

なんとかその場をしのげたら、冷や汗をぬぐってホッと一息、寝坊したことなんかもう忘れているのがフツーだろう。

 

つまり、怒る人の存在によって、岡本の目的は「寝坊しないための対策を立てる」ことから「怒られないようにする」ことに変わったのだ。

 

まさに少年も同じように、怒られることを回避するために、答えを写して宿題を提出したのだろう。

 

 

そもそも、この少年に勉強を強制すんのってぶっちゃけどうなん?とか、そもそも母親が勉強を強いるのはホンマは子どものためじゃないんちゃうん?とか、書き出すとキリがないので、ここでは、母親がキレた目的を単純に「宿題をさせること」だとしよう。

 

「宿題をさせる」って言っても、答えを丸写しした少年に「良くできました!」と褒めるわけはないっすよね?

 

ということは、母親のキレた目的は別のところにあって、それはおそらく「宿題をきちんとやって成績を上げさせる」ことなのでしょう。

 

キレた結果、その目的は達成できたか。できなかったのです。つまり、母が怒ったことに、何の意味もなかった。(多くの場合、むしろ問題は悪化します。)

 

 

大事なのは、頭ごなしに怒ることでも叱ることでも褒めることでもなく、目的を果たす(この場合でいう「宿題をやって成績を上げる」」ためにどんな手段が考えられるのかを客観的に分析すること。

 

そして、少年の心に寄り添い共感しながら、彼が宿題をやることができない真の理由(「裏の関心」とも呼びます)を探ることなのだと思われます。

 

実際、問題のレベルが合わず苦戦を強いられ、間違えるのが怖かったり分からないのが嫌だったりで宿題をやらない、って子も多い。

 

大人でも、嫌なことは避ける傾向にあるのだから、この場合はやらないっていうより、やれない、に近いですよね。

 

 

子供扱いすることなく、一人の対等な人間として子どもたちと向き合ったとき、彼らの目線と同じ高さから世界を見たときに初めて見えるものがあるわけです。

 

宿題をやらせる立場から、宿題をやる立場に。大人側、親側、先生側の視点から、子ども側の視点に。必要なのは立場や視点を変え得る想像力なのかもしれませんね。

 

 

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